小説と幻想

シロウト小説書き有沢ケイの小説

桜花幻影

 少女がその夜見たのは……。ファンタジー掌編。

 

 

 風が吹くと、ほの白い花びらが宙に舞った。舞い踊る花びらは、渦を巻いて暗い夜空に吸い込まれてゆくようだ。湿った土の匂いに混じって、かすかに甘い香りを感じるのは、どこまでも続く桜の木のせいなのか。
 綾は、手にしたランプを宙に掲げた。蔵に置いてあったのを、密かに持ち出して手入れしておいたものだ。月明かり一つない山奥の道を進むには、あまりに心細い光である。ランプひとつ掲げたところで闇を退けられるわけもなく、桜の花が白く浮かび上がるばかりだ。揺らめくランプの光のせいで却って無気味さが増して感じられる。
 あまりにも静かな光景に、綾は、急に不安になって辺りを見回した。彼女の胸に後悔が萌してきたが、今更ひとり屋敷へと帰ってゆくのは、もっと恐ろしいことに感じられる。
「兄さま……」
 呼びかけるというよりも、むしろ不安のためにつぶやいた。小さな声は、かすかに震えていた。そう、彼女は兄の姿を探しにきたのだ。今は亡き兄を。


 綾がその話を聞いたのは、10年以上昔のことだ。その頃は、まだ曾祖母が健在で、綾たちにいろいろな言い伝えを語り聞かせてくれたものだった。
 そのうちのひとつが、桜の咲く新月の夜に「みさき山」に登ってはいけない、というものだった。
 そこでは、しびとが宴をしていて、これを邪魔すると村に祟りがあるというのだ。綾たちは信じなかったが、曾祖母は、それでも絶対に行ってはいけないと念を押した。
「あの世に連れて行かれるでな。行ってはならん」


 また強い風が吹いて、白い花吹雪が舞った。ランプが揺れて、樹影がゆらゆらと躍った。
 立ち止まると、不意に寒気が襲ってきて綾は身を竦めた。空いた左手が、胸の前でショールの端を抑える。風が彼女の長い髪とワンピースの裾を乱し、甘い香りが鼻腔に触れた。心なしか花の香りが強くなったように感じて、綾は目前にそびえ立つ桜の大樹を見上げた。
「やはり、ただの言い伝えなのかしら。兄さま……会いたいのに」
 小さな呟きは、響くことなく消えてゆく。


 半年前、兄が流行り病であっさりと逝き、綾は独りになった。べつだん、天涯孤独というわけではない。だが、父は絶対的な権力者で、綾の言うことなど聞きもしない。母にしても、17才にもなって、少しも落ち着く気配のない綾に困惑するばかりである。祖父母もとうの昔に他界しているし、唯一頼みの綱の曾祖母も5年前に長い生涯を終えている。だから、綾には兄しかいなかったのだ。
 綾にしても、もとより体が弱く病がちだった兄ゆえに、いずれ来ることと覚悟はしていた。しかし、だからといって胸の奥にわだかまる不安や孤独を消えはしない。表向き、笑顔を見せながらも、綾は未だ哀しみの底にあった。家族でさえ気付かなかったことである。
 兄の喪が明けて、時を措かず綾の結婚が決まった。隣村の大地主の三男坊を婿にとるのだという。綾は、まだ相手の顔も知らない。
 彼女が件の言い伝えを思い出したのは、そんな折のことだ。万にひとつでも兄の姿にまみえる可能性があるかと思うと、居ても立ってもいられなかった。曾祖母の話の、うすれかけた記憶を必死で掘り起こした綾は、密かに準備を整えた。そうして、待ちわびていた新月の今夜、家人の目を盗んで屋敷を抜け出してきたのだ。
 彼女自身、愚かなことをしていると分かっていた。だが、綾には、今夜のような機会はもう二度とない。結婚するというのは、そういうことだ。だから綾は、幻でもいい、兄の姿が見たかった。
 それは、もうすぐ『家』の持ち物になってしまう綾の、最後の足掻きかもしれなかった。


「痛ッ」
 木の根に躓いたらしい。派手に倒れたはずみに、ランプがカシャンと音を立てた。ふうっと明かりが消えて、綾はランプが壊れたのだと知った。
 綾は、服についてしまった土を祓いながら起きあがった。空を見上げると、白い花びらが襲ってくるように見える。彼女はその場に座り込んで、ぼんやりと空を見上げた。
「きれい……」
 ゆるく息をついて、落ちてくる花びらに見惚れた。暗い空から降ってくる花びらは、白くて柔らかい雪のようにも見える。その光景は、まるでこの世のものとも思われぬほどである。
 暫くそうしていたせいだろうか、体の芯が冷えてくるように感じて、綾は肩にかけたショールをかきあわせた。春とはいえ、夜半ゆえワンピースにショールだけでは、軽装にすぎたのかもしれない。
 ひときわ強い風が吹いて、綾の長い髪が桜吹雪の中を泳いだ。吹き飛ばされそうになって、頭を抱えて体を丸める。耳元で風がごうと鳴る。


「そこに誰かいるのか? 」
 不意にかけられた声に驚いて振り向くと、綾と同じ年頃の少年が桜の木の影から、こちらを覗き込んでいた。白いカッターが、闇の中にひときわ浮き上がって見える。服装からして学生であろう。柔らかな黒髪に緩やかな弧を描く眉、そしてやや細い面にはどこか見覚えがあって、綾は首を傾げた。確かに知っているような気がするのに思い出せない。どこかで嗅いだ覚えのある甘い香りが辺りに充満していて、頭にぼんやりと霞がかかったようになっているのだ。
「あの……」
「人間か。あんた。どうしてこんなところにいるんだ。」
「ひとを……ひとを探しているの。あなた知らないかしら」
「誰をだい? 」
「え……」
 訊かれて綾は戸惑った。たしかに誰かを探しているのに、それが誰なのか思い出せない。
「ふ……忘れたんだろう。ここは、そういうところだ。」
 少年は、すっと手を差し出して言った。乱暴な物言いに反して、その表情には奇妙な優しさがあった。
「さあ。連れて行ってやるから、帰るんだな。ここは。真っ当な人間のいる場所じゃない。」
「でも――」
 綾は言いよどんだ。まだ見つけてないわ。見つけてないから帰れない。そう言いたかったが、少年の顔を見ると言えなくなってしまったのだ。
「さあ。早く。」
 腕を引っ張られて、しぶしぶ立ち上がると、少年の背後から声がした。
「三郎。そこにおるのか。三郎。返事をせい。」
 張りのある女の声である。その声は、ひどく近い所からしているようなのに、綾からは死角なのか、姿が見えない。
「ち、見つかったか。……姐《あね》さん、どうかしたのか。」
「おお、三郎。そこにおったか。お館さまがお呼びじゃ。早よう。来や。」
「分かった。今行く。」
 答えて、綾に何ごとか言おうとしたが、追い討ちをかけるように女の声がして、
「それは。新入りかえ? 」
「ああ。今、拾った。」
 三郎と呼ばれた少年は、低い声でそう言った。そして、小さな声で綾にこう言った。
「いいか。何があっても喋るな。飲み食いもするな。戻れなくなるぞ。」


 三郎に手を引っ張られるようにして、綾は桜並木の奥に進んでいった。真っ暗な山の中、桜の花ばかりが白く浮き上がっている。息をするたびに胸の奥を甘い香りが満たして、息苦しいような心地よいような不思議な心地がする。確かに声が聞こえていた女の姿は、どこまで行っても影ひとつ見当たらない。
 そうしてどれくらい行ったところだろうか、三郎があまり強く手を掴むので、綾の手が痺れてきた。綾がたまらず手を引くと、三郎は振り返って、
「どうした。……ああ。悪い。痛かったか。あと少しで着くから。向こうに明かりが見えるだろう。」
 三郎のゆびさす先には、確かに明かりがあった。ぼんやりとした明かりが桜を照らして、薄紅色に霞んでいる。
 近づいていくにつれ、かすかに音が聞こえてきた。水音のようだ。足元に小川が流れているのだ。綾が気づいて目を転ずると、彼女の足元で澄んだ水に明かりが反射して、ちかちかと瞬いていた。
 明かりの正体は、桜の木のそこかしこに吊られた雪洞であった。雪洞は、中に蝋燭が灯っているものだが、ここに掲げられた雪洞の明かりは揺らめくことがない。蝋燭の灯る匂いも感じられない。いや、あったにしても、胸を満たす甘い香りでかき消されている。かといって雪洞には電球の入っている様子もない。ただ、揺れもせず、ぽうと灯っている。何とも不思議な明かりである。
「その明かりが不思議かえ? 」
 確かに先刻聞いた女の声である。綾がはっとして声のした方を向くと、唇の紅い女が桜の下、茣蓙を敷いた所に足を崩して座っていた。さらりと後ろに流した黒髪が、光を放たんばかりに艶やかだ。派手な牡丹の柄が入った黒い留袖を着て、目尻にも紅を差している。切れ長の目といい、笑みを含んだ紅唇といい、妖艶の二文字がぴたりとはまる美女である。年の頃は30代後半か、40代ぐらいだろうか。留袖の襟元が少しばかり緩んでいるが、品を損なうほどではない。
「何だい姐さん、留袖なんぞ着て。どういう風の吹き回しだ。」
 三郎が女に声をかけた。気安い様子からして、親しい間柄なのだろう。女は気を悪くする様子もなく、
「たまの休みじゃ。こういうのも悪くなかろう。」
 などと応えて、笑みを見せる。
「まあ。似合いもしない、黄八丈を着るよりはいいだろうさ。」
「ふん。言っておれ。……三郎。お館さまのところへ行かぬのかえ。」
「あ? 本当に呼んでいたのか。」
 三郎はそう言うと、ちらりと綾に目を向けた。何か心掛りがある様子だ。
「新入りのことは、気にするでない。妾がみてやろう。」
「だから。それが心配――。」
 言いかけて三郎は、女が目を鋭くしたのに慌てて口をつぐみ、じゃあ頼む、と言って、綾に何ごとか目顔で伝えてきた。綾は、何のことか分からず困惑した。だが、三郎は尋ね返す間も与えず、背を向けて行ってしまった。白いシャツの後姿が、あっという間に桜吹雪に紛れて見えなくなる。
「三郎といい、若いみそらでほんにもったいないの。」
 綾が声のした方を振り返ると、姐さんと呼ばれていた女が悲しげな表情で三郎が消えた方向を見ていた。綾は、彼女に何か言おうとして止めた。三郎に戻れなくなるぞ、と言われたのを思い出したのである。
 そうして、綾は促されるまま、茣蓙の上に差し向かいで座った。女の膝の右側には、大きな徳利と漆器の赤い杯が行儀よく並んでいる。浅い杯の中には、薄紅の桜の花びらが絵のような見事さで2、3枚載っていた。
 女は、芝居がかった仕草で、つと杯を取り上げ、花びらを振り払うべく、その白い手をひらつかせた。そのまま流れるような仕草で、綾に杯を差し出す。
「ささ、神酒を。天上の酒じゃ。ひと口飲めば浮世を忘れ、ふた口飲めば若返り。」
 思わず綾が受け取ってしまった杯に、女が徳利の酒を満たしながら奇妙な節を付けて詠ずる。注ぐほどに甘たるい香りが立ちこめて、それだけで酔ってしまいそうだ。
「この神酒はの、不思議の酒じゃ。飲むほどに現世を忘れ、忘れるほどに若返る。ぬしも現世を離れたなら、なくして困る記憶もなかろう。」
(戻れなくなるぞ。)
 そう言った、三郎の声がふと綾の脳裏をよぎった。
(これを飲めば――)
 そう、これを飲めば戻れなくなるのだ。あの屋敷に。だが、そこには、綾のことを分かってくれようとする人はもう誰もいない。これを飲みさえすれば、もう、屋敷に戻らなくてもいい。『家』のものにならなくても良いのだ。
 甘い香りが綾を誘う。杯に満たされた透明な液体を見据えると、その表面にさざなみがあらわれる。手が震えているのだ。その震えが恐怖からくるのか、それとも歓喜からくるのか、綾自身にも判断がつかなかった。
「さ、飲まれよ。遠慮せずともよい。」
 唾を飲み込み、綾が杯に口をつけようとしたその時、横合いからひょいと現れた手が杯を奪い取った。
「これだから、姐さんは信用ならないんだ。新入りにこんなの飲ませるのは、いくら何でも酷じゃないのか。」
 杯を奪い取った手の持ち主が言った。綾が見上げると、案の定そこには三郎がいた。
「酷と言うか。妾は親切と思うて勧めたのじゃが。正気づくと、ぬしのように飲めなくなろう。忘れたくないなどと言うて。違うたか。」
「違わないさ。だが、それも悪くはない。どれほど苦しもうと、おれは何でも自分で決めたい性分でね。」
 言って、くっと笑うと一気に杯を呷った。よほど強い酒なのか、三郎の体がくらりと傾ぐ。と、なんと三郎の体がわずかに縮んだ。少なくとも綾にはそう見えた。目がおかしくなったかと慌てて擦って見るが、やはり体が縮んでいる。シャツの中を体が泳ぐほどではないにせよ、先刻はぴたりと大きさが合っていたはずのものが、やや大きめになっているのだ。
「ははっ。驚いたか。姐さんが勧めたのは、こういう酒だ。」
 三郎が機嫌よく笑って、杯を放り投げた。投げられた杯は、徳利の横にころりと転がる。綾は、不思議な気分で徳利を見つめた。少年に会った時から、そのような気はしていたが、やはりここは、この世ではないのだ。この世のどこに若返りの酒があろうものか。
「怖いか。」
 ふいに三郎が真剣な声で言った。綾は、その目が彼女を責めているように感じて、俯いた。ここはお前の来る場所ではない、と言われているような気がした。


『誰ぞおらぬか。』
 場にそぐわぬ、陰鬱にひびく低い声に、空気がざわめいた。つい先刻まで、一向に感じられなかった何かの気配がして、綾は不安に身を震わせた。夜はいよいよ深く、舞い散る花びらの一枚一枚でさえも意志を持っているかのように、空気に濃密な気配が宿っている。雪洞の光だけがぽうと浮き上がり、夜空はその闇をいっそう濃くした。
『誰ぞ、誰ぞおらぬか。生きたものの匂いがしよるぞ。』
 綾は、三郎に手を引かれて立ち上がり、促されるままにじりじりと後退した。見つかってはいけない。彼女にも、状況がつかめないなりに、それだけは分かった。
 震える左の手でショールの端をきゅっと握りしめ、靴のかかとで地面を探って後退する。右手は、無意識のうちに斜め前方にいる三郎のシャツを掴んでいた。何かが、近づいてくる。
(お館さま。次郎はここに。)
(一郎が馳せ参った。……確かに、確かに。)
(士郎にございます。)
(生き物とな。珍しやのう。)
(これ、九郎。何を呑気なことを。)
 ざわめきのような、声ならぬ声が綾の耳元にも届いた。と、気が逸れたためか、足が滑った。小川に足をとられたのだ。後ろざまに倒れこむ瞬間、綾はそれを見た。
「きゃあああっ!」
「ばか、声を出すな! 」
 三郎が言ったところでもう遅かった。いくつもの気配が綾を目指して集まってきていた。
(人間。)
(ひとの声が。)
(人間じゃ。)
(それ、そこに。)
 いっそう低い声が雷鳴のように鳴り響いた。
『捕らえよ。逃すことはならぬ。』

「こっちだ。走れ! 」
 三郎の手が、綾の手を掴んで走り出した。綾は、わけも分からず、引きずられるようにして走るばかりだ。湿った革靴が重たくて気持ち悪い。強く立ちのぼる甘い香りが胸の奥に詰まるようで、息がくるしい。
 無数にある桜の木が、こちらに迫っては後ろに飛び去ってゆく。桜の花びらが途切れることなく二人に襲い掛かり、視界を覆わんとする。右も左もなく、前も後ろもない。四方八方すべてが桜、さくら、サクラばかり。天から襲い掛かり、地より湧き上がる桜吹雪。風は渦を巻いて迫り、二人を吹き飛ばそうとする。顔に吹きかかり、髪を舞い上げる桜吹雪。綾は、何度も引き離されそうになりながら、両手で三郎の手を握りしめていた。
 離されないように。もう二度と離されないように。



 100メートルほど先に、電信柱に取り付けられた傘のついた電球が、瞬きを繰り返しながら暗い光を放っていた。少し古びた木の電信柱は、昨年の台風のときに少し傾いだままだ。
「あ……」
 気がつくと、そこにはもう、紛れようのない現実があった。三郎の手を握っていたはずの両手には、蔵から持ち出したランプの取っ手が握られていた。灯は、消えていた。まるで、今まで見てきたことが幻だったとでも言うように。ただ一つ証拠と言えば、肩に掛けていたショールがなくなっていたことぐらいである。
 綾が身じろぎすると、髪の毛や肩についた桜の花びらがはらはらと散った。夜気を含んだ風が吹くと、覚えのある甘い香りがふわりと薫って、消えた。
「兄さま……?」
 綾が出会った少年は、面差しといい、体つきといい、彼女の兄に実によく似ていた。ただ、記憶にあるよりも幼く、乱暴な言葉遣いに至っては、全く別人としか言いようがなかった。三郎が兄だったのか、兄が三郎だったのか、それとも全くの別人だったのか。綾には分からなかった。
 耳の奥に三郎の言葉が残っていた。達者で暮らせと。ひとことだけ。
 綾は、後ろを振り返った。みさき山には今を盛りと桜が咲き誇っていたが、どんなに目を凝らしてみても、あの不思議な雪洞の明かりは見えなかった。
 目の裏がじわりと熱くなったが、綾は泣かなかった。口の中で何事か小さくつぶやくと、身を翻して家路を急いだ。振り返ることはなかった。


―了―